ウクライナの歴史

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ウクライナ・ロシア戦争

2014年からロシアがドンバスに侵攻中です。

先史時代

現在のウクライナで人類が現れたのは旧石器時代初期、約30万年前である。原人段階の人類は中東からカフカス山脈とバルカン半島を経て、黒海北岸へ移動したと考えられる。12万年前から旧人(ネアンデルタール人)が登場し、4万年前に新人(クロマニョン人)が出現した。ウクライナで発見された旧石器時代後期の新人遺跡は約800があり、新人の人口は約2万であったと推測される。1万年前以後、中石器時代において欧州の気候が定まり、ウクライナでは北部の森林地帯、中部の森林草原地帯、南部の草原地帯といった気候地帯が成立した。それぞれの地帯において異なる文化圏も形成された。人類は弓矢を使い、動物を飼育することができた。紀元前6千年期から人類は農業を始め、土器や布などを作成するようになり、新石器時代に入った。ウクライナで見られる新石器時代の農耕集落跡は、東欧最古であると考えられている。

マンモスの骨を利用した住居(復元模型)。メジリチ遺跡の例をモデルに復元。国立科学博物館の展示

チョルノリース文化

チョルノリース文化(ウクライナ語:Чорноліська культура)または黒森文化は前11世紀ごろから前8世紀ごろを最盛期として前3世紀ごろまでにかけて黒海の西北部、ドニエステル川とドニエプル川に挟まれた、森林性ステップ地域を中心に広がっていた文化。遺跡の名称は、中央ウクライナ、キロヴォフラード州の「黒森」(Чорний ліс;チョールニー・リース)と呼ばれる大きな森林で発見されたことにちなんで名付けられた。スラヴ語派の各民族、すなわちスラヴ人の起源における決定的に中心的な文化と考えられ、後の時代のこの地域の諸文化の絶え間ない融合や分裂のプロセスを経てさまざまな文化や国家に分かれたあとでも、元をたどるとこのチェルノレス文化に行き着く諸文化が現在のスラヴ人諸民族となっている。青銅器時代から鉄器時代への変遷期の文化で、両方の時代の特徴が見られる。同じ地域に広がっていた青銅器文化のベログルードフ文化とその南のコマロフ文化から発展したものと推定されている。地理的には、トシュチニェツ文化の東部地域と一致する。

チョルノリース文化の遺跡(中央の紺色がチョルノリース文化)

チョルノリース文化の特徴

地球上で最も肥沃な、いわゆる黒土地帯と呼ばれる地域にほぼ一致して広がっており、穀物栽培が盛んであった。集落は城塞でない開けた構造のものと、丘の上に築いた城塞の2つの種類がある。城塞型は盛り土による防壁や環濠で守られていた。家屋は大半が地上式で大家族が住めるよう大型(縦6メートル、横10メートルほど)で堅固な作りとなっている。斧は石、青銅、鉄で作られており、武器は青銅のものが大半。装飾物は青銅製で、工具は鉄製であった。また、馬具も鉄製でその意匠はこの文化独特であった。馬を大切にし、愛馬が死ぬとその葬儀をも行っていた。 人の埋葬については、初期は様々な規模のクルガン墳墓(古代ユーラシア大陸中緯度地域独特の墳丘式墳墓)を築いて土葬していたが、のちには荼毘に付したあと集団墓地に埋葬する火葬が一般化した。この火葬の習慣についてはヘロドトスも 農耕スキタイの習慣として言及し、さらにその話の中で出てくる地名と初期スラヴ人の河川名とが一致している。そのためこの文化はスラヴ人の初期文化、ないしはのちにスラヴ人の基幹となる集団の先祖の文化のうち主要なもののひとつであると推定される。 遺跡から出土する様々な金製品の特徴から、遊牧系スキタイ人との密接な接触があったことは明らかである。またさまざまな借用語や河川名は、もとはイラン語群の言語から来たものであるため、遊牧系スキタイ人がイラン語群の言語を話していたとすれば現在のスラヴ語派やバルト語派にみられるイラン語群からの強い言語的影響はこの時代の人々の遊牧系スキタイ人との接触によるものであると推測される。

チョルノリース文化の陶器

スキタイ

スキタイ(ウクライナ語:Скіфи)は紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その地をスキュティア、スキティアと呼ぶ。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けた。

紀元前7世紀‐4世紀のウクライナにおけるスキタイの遺跡

スキタイの諸族

ヘロドトスは『歴史』においてスキタイの諸族を紹介している。

カッリピダイ

カッリピダイ(あるいはカリッピダイ)はギリシア系スキタイであり、ヒュパニス(現在の南ブーフ川)河畔に住んでいる。習俗は大体にしてスキタイと同じだが、自ら穀物を栽培して食用に充て、玉ねぎ,ニラ,扁豆,栗なども栽培しているので、遊牧民であるスキタイと異なる。カッリピダイの向こうにはアリゾネスという民族が住んでいる。

農耕スキタイ

アリゾネスの向こうには農耕スキタイ(スキタイ・アロテレス)と呼ばれる部族が住んでおり、カッリピダイ同様、穀物を栽培している。しかし、カッリピダイとは違って自らの食用のためだけではなく、他に輸出するためにも穀物を栽培している。農耕スキタイの北ないし北西にはネウロイという民族が住む。 鉄器時代の文化である黒森文化の担い手で、古い時代の馬具が出土しており、遅くとも先スキタイ時代である第2期までにはすでに馬をよく使う文化が成立していたことが知られている。スラヴ語に見られるイラン系言語の地理的名称(とくに河川の名称)や借用語、そしてキリスト教を受容する前の中世前期スラヴ人にも見られる火葬の習慣から、農耕スキタイはプロト・スラヴ人(原スラヴ人とも呼ばれる、スラヴ人の祖先となった複数の古代部族)のうちの基幹的な集団であると推定される。

農民スキタイ

ボリュステネス河(現:ドニエプル川)を渡って海辺から北上すれば、まず、ヒュライア(森林地帯)があり、ここからさらに北上すれば、農民スキタイ(スキタイ・ゲオルゴイ)が住んでいる。ヒュパニス河畔に住むギリシア人はこれをボリュステネイタイ(ボリュステネス市民)と呼ぶが、彼ら自身はオルビオポリタイ(オルビア市民)と称す。

遊牧スキタイ

農民スキタイの居住地から東へ向かい、パンティカペス河を渡れば、遊牧スキタイ(スキタイ・ノマデス)が住んでいる。彼らは純粋な遊牧民であり、彼らの住む地域は木が一本も生えていない草原地帯である。この遊牧スキタイはパンティカペス河からゲッロス河に至る東西14日間の範囲にわたって住んでいる。

王族スキタイ

ゲッロス河以遠はコラクサイスを始祖とする王族パララタイ氏の領する王族スキタイ(スキタイ・バシレイオス)の領土であり、彼らはスキタイの中で最も勇敢で数が多く、他のスキタイを自分の隷属民とみなしている。国家的な意味で「スキタイ」と呼ぶときはこの王族スキタイを指す。彼らの領土は南はタウロイの国(タウリケ)に達し、東は盲目の奴隷の子らが開墾した掘割に至り、マイオティス湖(現:アゾフ海)畔の通商地クレムノイに及んでいる。また一部はタナイス河(現:ドン川)にも接している。 1世紀のポンポニウス・メラは『世界地理』で、「バシリダイ族の始祖はヘラクレスとエキドナの子で、習俗は王族風、武器は弓矢だけである。」と記す。

別種スキタイ

テュッサゲタイとイユルカイの国を越えてさらに東方に進めば、別種のスキタイが住んでいる。これは王族スキタイに背き、その果てにこの地に到来したものである。

エルミタージュ博物館所蔵の黄金製の櫛

黄金製のスキタイ射手

トヴスタ・モヒーラ古墳で発見された女性の胸飾り

パジリク古墳出土の絨毯

パジリク5号墳出土のフェルト製壁掛けに描かれた騎馬像

陶器に描かれたスキタイ戦士

キイフ大公国

キイフ大公国(キイフたいこうこく)は、9世紀後半から1240年にかけてキイフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(ウクライナ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキイフに由来する。

10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。

ウクライナがルーシの後継者です。

キイフ大公国の地図(1054年)

キイフ大公国の地図(1220年 - 1240年)

ヤロスラフ1世はキイフ・ルーシの大公(在位:1016年 - 1054年)。ヤロスラフ賢公の印鑑

ヴォロディーミル1世の金貨(10世紀の肖像と紋章)。三叉の矛の意匠は現在のウクライナの国章に引き継がれている

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国(ハールィチ・ヴォルィーニたいこうこく、ウクライナ語: Галицько-Волинське князівство)は、1199年から1349年の間に現在の西ウクライナを中心として存在したリューリク朝のルーシ系国家である。君主の称号の変更によってハールィチ・ヴォルィーニ公国、ハールィチ・ヴォルィーニ王国と呼ばれることもある。

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は、ルーシのハールィチ公国とヴォルィーニ公国という二つ公国の合併によって誕生した新しい大公国であった。13世紀の半ば、その大公国はモンゴルの侵略を受けたキエフの公朝の後継者となり、キエフ・ルーシの政治、伝統、文化などを受け継いだ主な国家となった。その国家は、ローマ教皇をはじめ、中世ヨーロッパの諸国の援助の元に反モンゴルの先陣の役割を果たしていた。

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はルーシ系の諸公国の中でもっとも大きい公国の一つであった。その領土は、現在の西ウクライナ、西ベラルーシ、東ポーランド、北東ハンガリー、モルドヴァを含めていたが、政治的・経済的・文化的中心はヴォロディームィル、ハールィチそしてリヴィウという西ウクライナの3つの都市にあった。

ダヌィーロ・ロマーノヴィチ(キイフ大公(在位:1239年 - 1240年)、ハールィチ・ヴォルィーニ大公(在位:1238年 - 1250年)であり、初の全ルーシの王(在位:1253年 - 1264年)でもあった)

リヴィウの町を背景にしたレーヴ・ダヌィーロヴィチの肖像

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は中央・東ヨーロッパにおいて活発な外交を展開した。ローマ教皇やドイツ騎士団と友好な関係を保つ一方、領土拡大を目指していた隣国、ポーランド王国・ハンガリー王国・リトアニア大公国とモンゴル人のジョチ・ウルスと攻防を繰り返していた。1245年にポーランド・ハンガリー両国と戦った際(ヤロスラヴの戦い(ウクライナ語版、ロシア語版、ポーランド語版))、大公国はジョチ・ウルスの宗主権を受け入れ属国化した。ローマ教皇インノケンティウス4世は1253年になってこれを危機と見て、大公に対し「王として戴冠する許可」を与えてジョチ・ウルスを牽制している(これをもってハールィチ・ヴォルィーニを王国、大公ダヌィーロ・ロマーノヴィチをルーシ王と見る向きもある)。1256年にバトゥが死去すると大公国はジョチ・ウルスの支配を逃れようと幾度か戦った。教皇は反モンゴル十字軍を呼びかけたが、ポーランド侵攻やハンガリー侵攻の記憶はまだ生々しく残っており、応じる国王や大公などおらず、1259年に独立の試みは失敗している。そもそもポーランドやハンガリーは、大公国がモンゴルと合従連衡を繰り返し長年にわたって彼らと敵対していたため既にもはや信頼をしておらず、彼らは大公国の支援にはまったく消極的だった。1259年の2度目のモンゴル侵攻では、ボレスワフ5世の領地であるクラクフやサンドミェシュ(英語版)が荒廃した。レーヴ・ダヌィーロヴィチは、1287年のノガイによる第三次ポーランド侵攻で、ハンガリー王国のザカルパッチャ地方を奪ってポーランド王国のルブリン州を占領、モンゴル人の力を借りて自分の領土を増やした上で、チェコ・リトアニア・ドイツ騎士団と同盟を結び、反モンゴル政策を鮮明にした。

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国では君主の力が弱く、ボヤーレと呼ばれた貴族の影響力が非常に強かったため、国家は常に内乱に陥りやすい状態にあった。1340年に大公朝が絶えると、貴族は一時的に国を支配するようになったが、隣国の圧力に対してうまく抗することができなかった。 その後、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は、ポーランド王国とリトアニアの諸公の軍勢によって侵略され、分割された(ハールィチ・ヴォルィーニ戦争)。領土の帰属問題は半世紀にわたって東ヨーロッパ情勢の不安定要因だったが、1392年、最終的にハールィチ公国はポーランド王国領となり、ヴォルィーニ公国はリトアニアの支配下に置かれた。

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の位置

ザポリッジャのシーチ

元来 ザポリッジャは、リトアニア大公国とクリミア・ハン国の境界地に広がる「荒野」という未開の地域におけるドニプロ川の下流での小さな局地だった。16世紀になると、ウクライナからのコサックは、その局地で自治制の軍事的組織であるシーチを創建し、シーチの支配領域と ザポリッジャの地域範囲が同視されるようになり(ザポリッジャのシーチ(英語版))、コサックは「荒野」を開拓していくに連れて、 ザポリッジャの境界線が拡大していった。

17世紀から18世紀にかけて、 ザポリッジャは、シーチを中心とした「下(しも)の ザポリッジャのコサック軍」(ウクライナ語:Військо Запорозьке Низове)の支配下の領土を意味していた。それは、南ブーフ川からドネツ川まで広がっていて、東はロシア帝国とドン・コサック軍、南はクリミア・ハン国、西はポーランド・リトアニア共和国とオスマン帝国、北はウクライナ・コサックのヘーチマン国家と接していた。「下の ザポリッジャのコサック軍」の領土は、州に値するパラーンカという行政単位に区分され、パラーンカは ザポリッジャという地域の地区としての資格を有していた。

フメリニツキーの乱(1648年-1657年)で、ポーランドからコサック国家が独立することに成功したが、1775年にロシア帝国によって ザポリッジャのシーチが破壊され、1783年には滅亡したクリミア・ハン国の領域と ザポリッジャは合併させられ、ノヴォロシア(『新ロシア』の意味)に改名させられ、独立は失われた。

ザポリッジャの地図(18世紀)

ウクライナ・コサック

ウクライナ国

ウクライナ国(ウクライナ語:Українська Держава ウクライィーンスィカ・デルジャーヴァ)は、1918年4月29日から同年12月14日まで中央ウクライナを中心に存在した国家。

その政府であるウクライナ中央ラーダは、ドイツ帝国及びオーストリア・ハンガリー帝国と共同でボリシェヴィキとの戦闘を遂行した。

それに代わってドイツと共闘するウクライナ国家の代表として選出されたのが、パウロー・スコロパードシクィイ将軍であった。自由コサック民兵団を率いていたスコロパードシクィイは、ウクライナ人の間でのコサック人気を利用してヘーチマーンの称号を用いることとし、彼はかつて実際に左岸ウクライナのヘーチマーンであった自分の祖先にあやかって「全ウクライナのヘーチマン」を名乗った。また、スコロパードシクィイは政権の奪取とともに国号をウクライナ国と改めた。また、彼の政府は「ヘーチマーン政府」(ゲトマン政府、ヘトマン政府、ヘーチマーンシュチナとも)と呼ばれた。

これ以前のウクライナ人民共和国では社会主義の理想に基づいた平等政策が採られていたが、スコロパードシクィイはその支持基盤がロシア人や旧帝国の貴族(即ち地主)であったこともあり、極めて反動的な政策を採った。特に、中央ラーダ政府が農民に分配していた農地を地主に返したことは大きな意味を持っていた。

ドイツ軍の敗戦が濃厚となると、ヘーチマーン政府も政党等の各勢力の支持を取り付けようとしたが成功せず、結局11月11日にドイツが敗戦しウクライナ駐留軍も撤退すると、その勢力は断末魔に陥った。

スコロパードシクィイは自らの軍隊を首都周辺に戦闘配置に付かせたまま鉄道で撤退するドイツ軍とともにドイツへ逃亡し、12月、農村を中心に強力な支持を取り付けていたシモン・ペトリューラ率いるディレクトーリヤ軍との短い戦闘ののち、ヘーチマーン政府軍は総崩れとなり、ディレクトーリヤはドイツ軍と協定を結んだ上で12月14日、キエフを占領した。

ペトリューラ軍はヘーチマーン政府軍より遙かに優れた装備を持っており、その実力以上に恐れられていた。権力の掌握後、中央ラーダの流れを汲む勢力であったディレクトーリヤ政府は国号を再びウクライナ人民共和国に戻し、ここにウクライナ国の命運は尽きた。

ウクライナ国の位置

ウクライナ人民共和国

ウクライナ人民共和国(ウクライナ語: Українська Народна Республіка)は、1917年11月22日から1920年11月10日にかけてウクライナに存在した国家である。独立は1918年1月22日。なお、1918年4月29日から12月14日の間はウクライナ国を称した。

首都はキイフに置かれたが、ジトームィル、ヴィーンヌィツャなどいくつかの地に臨時首都が置かれたこともあった。 ウクライナ人民共和国は社会主義を標榜するウクライナ民族主義者によって建国された。それまでの封建的な体制を否定し、理想的な民主主義国家を目指し政策の決定がなされた。すなわち、言論・出版・信条・集会・ストライキの自由の保障、個人の不可侵、死刑の廃止、それまで反体制的であるとの理由で投獄されていた政治犯の大赦、少数民族の自治の権利の保障、8時間労働、土地の私有の制限(ウクライナでは少数の大貴族により、大半の土地が占有されていた)、生産手段の規制、戦争の終結などである。 しかし、この国家は各国の干渉を受け永らえることはできなかった。だが、ウクライナ史の中でウクライナ人民共和国の時代はウクライナにも確かに独立国家が存在したことがあったという記憶としていき続けた。ウクライナの独立性は、ソ連時代を経てもなお失われることはなかった。1991年に独立した現代のウクライナはこの共和国の後継国家であると自らを位置づけており、国旗や国歌、国章を同共和国から受け継いでいる。

パリ講和会議でウクライナ人民共和国の代表が国際公認を求めていたウクライナ人民共和国の国境

ウクライナ・ソビエトロシア戦争

第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ウクライナ・ソビエトロシア戦争をロシア赤軍が制したことで、ソビエト連邦内の構成国となった。

ウクライナ・ソビエトロシア戦争(ウクライナ語:Українсько-радянська війна)は、1917年12月から1921年11月にかけてウクライナの支配を巡って、キイフを首都とするウクライナ人民共和国と、ソビエトのロシアおよびその傀儡政権ウクライナ社会主義ソビエト共和国との間に行われた戦争である。ソビエトのロシアの勝利で終わった。戦争中にウクライナの人口が著しい被害を受け、10人に1人が死亡した。1922年12月にウクライナ社会主義ソビエト共和国はロシアが指導するソ連邦へ取り込まれた。

キイフの聖ムィハイール大聖堂の前に立つウクライナ人民共和国の軍人

ホロドモール

ソビエト・ロシアにとって、ウクライナから収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であった。飢餓が発生してもウクライナの小麦は徴発され、輸出に回され続けたため、それが更なる食糧不足を招くことになった(飢餓輸出)。

1930年代初め頃には農業集団化は次第に強制的なものになっていった。ソ連は、ウクライナ民族主義者、ウクライナ人の知識人、集団化政策への反対者、そして共産党政権にとって脅威であると見なした者を容赦なく処罰した。また、農村部は民族主義者の溜まり場として目をつけられていた。

輸出へ食糧を回すため、国家による統制を行い易い自営農家を国営農場(ソフホーズ)や集団農場(コルホーズ)に集団化し、農民を土地から切り離すという政策が採られたのである。農民にとって土地から切り離されるということは、自らのアイデンティティを喪失することにほかならなかった。ウクライナの農民はこの集団化にできうる限りの手段で対抗したが、その結果多くの者がシベリア送りになったり高率な税によって苦しめられたり、また土地を所有する自作農であるクラークは、農民階級のブルジョワで人民の敵であるとして土地を没収され、収容所送りになったり処刑されたりした。また、この時期に抵抗する農民が所有する家畜を屠殺するなどしたため、その半数が失われた。

都市から派遣された労働者や党メンバーから構成されたオルグ団は空中パトロールで畑を監視し、農場にはコムソモールのメンバーが見張りに送り込まれ、肉親を告発すれば子供にも食物や衣類やメダルが与えられた。党の活動家達は家々を回り、食卓から焼いたパンを、鍋からカーシャまでも奪っていったと言われる。食料を没収された農民達はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫、ドングリやイラクサまで食べた。遂に人々は病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べるに至り、その結果多数の人間が病死しており、赤ん坊を食べた事さえもあった。通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂っていた。取り締まりや死体処理作業の為都市から人が送り込まれたものの、逃げ帰る者も多かった。子供を持つ親は誘拐を恐れて子供達を戸外へ出さなくなった。形ばかりの診療にあたった医師達には、「飢え」という言葉を使う事が禁じられ、診断書には婉曲的な表現が用いられた。困り果てた農民達が村ソビエトに陳情に行っても「隠しているパンでも食べていろ」と言われるだけだった。

飢餓により街頭に倒れ込んでいる農民と気を払うことなく通り過ぎるようになった人々。(1933年)

ウクライナでは、こうした急激な集団化のため1932年から1933年にかけて大飢饉(ホロドモール)が発生した。耕作態勢の混乱で不作に陥ったところに、モスクワ政府は政府調達ノルマとして収穫物の大半を収奪していったのである。政府による食糧の収集は強引なもので、ウクライナではこの時期に一説に500万人が餓死し、農村では村が丸ごと全滅したケースもあった。 現代では、この飢饉は強引な集団化や穀物調達によって人為的に起こされたものであると評価されており、スターリンによるウクライナ民族主義への弾圧の一環であるとも言われている。

現在

1991年ソ連崩壊に伴い独立した。

ウクライナの国土のほとんどは、肥沃な平原、ステップ(草原)、高原で占められている。ドニプロ川、ドネツ川、ドニエステル川が横切っており、南のブーフ川とともに、黒海、アゾフ海に注ぎ込んでいる。黒海北岸にはクリミア半島が突き出しており、ペレコープ地峡で大陸とつながっている。

南西部にあるドナウ・デルタはルーマニアとの国境になっている。 山岳地帯は、ウクライナの最南端のクリミア山脈と西部のカルパティア山脈にしかない。最高峰はカルパト山脈にあるホヴェールラ山(Говерла, Hoverla)で標高2,061メートルある。なお、これ以外の地域も平坦というわけではなく、東ヨーロッパの中では比較的起伏の多い地形をしている。

気候は温暖な大陸性気候であるが、クリミア半島の南岸は地中海性気候により近い。降雨量は局所的に偏っており、北部や西部は多く、南部や東部は少ない。冬は黒海沿岸は涼しいが、内陸に行くにしたがって寒くなる。夏はほとんどの地域で暖かいが、当然南に行くほど暑い。

ウクライナの地図

ウクライナの世界遺産

聖ソフィア大聖堂 はウクライナの首都、キイフの真中心にあるキリスト教の大聖堂である。ウクライナ最初の中央政権国家キイフ・ルーシ最大の聖堂として1037年に建立された。現代において、11世紀から18世紀までのウクライナ建築史上最も名立たる教会であるとされる。1990年に世界遺産に登録された。

キイフ・ペチェールシカ大修道院。キイフ大公国の時代、1051年にキイフの郊外に建立された。中世から近世にかけてウクライナの宗教・教育・学問に大きな影響を与えつつ、様々な政権と争ってきた修道院である。1990年に世界遺産に登録された。

ブコビナ・ダルマチア府主教の邸宅(ブコビナ・ダルマチアふしゅきょうのていたく)はウクライナのチェルニウツィーに残る建造物群で、ブコビナがオーストリアに属していた1864年から1882年にかけて、チェコ人の建築家の設計で建てられた。現在はチェルニウツィー大学の校舎の一部として利用されている。2011年にUNESCOの世界遺産リストに登録された。

ウクライナの国歌

ウクライナの国歌(ウクライナ語:Державний Гімн України)は、ウクライナの国家象徴の一つ。国歌の名は「ウクライナは滅びず」 (Ще не вмерла Україна)である。1862年にパウロー・チュブィーンシクィイ (Чубинський Павло Платонович) が作詞、1863年にムィハーイロ・ヴェルブシーツィクィイ (Михайло Вербицький) が作曲した。

ウクライナの国歌の歌詞(ウクライナ語)

Ще не вмерла України і слава, і воля, Ще нам, браття молодії, усміхнеться доля. Згинуть наші воріженьки, як роса на сонці. Запануєм і ми, браття, у своїй сторонці.

Душу й тіло ми положим за нашу свободу, І покажем, що ми, браття, козацького роду.

Станем, браття, в бій кривавий від Сяну до Дону, В ріднім краю панувати не дамо нікому;

Чорне море ще всміхнеться, дід Дніпро зрадіє, Ще у нашій Україні доленька наспіє.

Душу й тіло ми положим за нашу свободу, І покажем, що ми, браття, козацького роду.

А завзяття, праця щира свого ще докаже, Ще на нашій Україні піснь гучна розляже; За Карпати відіб’ється, згомонить степами, України слава стане поміж народами.

Душу й тіло ми положим за нашу свободу, І покажем, що ми, браття, козацького роду.

ウクライナの国歌の歌詞の日本語訳

ウクライナの栄光も自由もいまだ滅びず、 若き兄弟たちよ、我らに運命はいまだ微笑むだろう。 我らが敵は日の前の露のごとく亡びるだろう。 兄弟たちよ、我らは我らの地を治めよう。

我らは自由のために魂と身体を捧げ、 兄弟たちよ、我らがコサックの氏族であることを示そう。

シャン川からドン川までの血の戦いに立とう、 我らの故郷で他者の支配を許さない。 黒海はまた微笑み、祖父たるドニプロ川も喜んでくれるだろう。 我らのウクライナに運はいまだ向いてくるだろう。

我らは自由のために魂と身体を捧げ、 兄弟たちよ、我らがコサックの氏族であることを示そう。

努力と労働が成果を示し、 我らのウクライナで大歌はいまだ轟くだろう。 カルパティア山々に響いて草原へ鳴り渡り、 ウクライナの名声は諸国に伝わるだろう。

我らは自由のために魂と身体を捧げ、 兄弟たちよ、我らがコサックの氏族であることを示そう。

ウクライナの国旗

ウクライナの国旗

ウクライナの国章

ウクライナの国章

外部リンク